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東京地方裁判所 昭和53年(ワ)2374号 判決 1983年1月28日

原告

(亡浜中秀夫訴訟承継人)

浜中美智子

浜中直行

浜中信行

重井芙美子

右原告ら訴訟代理人

栗栖康年

被告

国家公務員共済組合連合会

右代表者理事

大田満男

被告

加藤彰

右被告ら訴訟代理人

真鍋薫

主文

一  被告らは各自、原告浜中美智子に対し金一〇五万円、原告浜中直行、同浜中信行、同重井芙美子に対し各金七〇万円及び右各金員に対する昭和五三年三月二六日から支払ずみまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを一〇分し、その九を原告らの、その一を被告らの各連帯負担とする。

四  この判決は、原告ら勝訴の部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは各自、原告浜中美智子に対し金一二七三万三八八三円、原告浜中直行、同浜中信行、同重井芙美子に対し、各金八四八万九二五五円及び右各金員に対する昭和五三年三月二六日から支払ずみまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告浜中美智子は亡浜中秀夫(以下「秀夫」という)の妻であり、原告浜中直行、同浜中信行、同重井芙美子はいずれも秀夫の子である。

被告国家公務員共済組合連合会(以下「被告連合会」という)は、虎の門病院を開設経営する法人であり、被告加藤彰(以下「被告加藤」という)及び後記の川村医師はいずれも虎の門病院に勤務する医師である。

2  秀夫の病状と診療経過

(一) 秀夫は、昭和五〇年三月一七日午後七時四五分ころ、下腹部の激痛のため、救急患者として虎の門病院で診察を受けた。

当初秀夫の診察を行つたのは川村医師であつたが、同医師の診断によると秀夫の症状は、「脈拍八〇、体温三七度二分、下腹部全体に圧痛があり、軽い筋抵抗が認められるが、ブルムベルグ症状はない。腸蠕動音は正常。」というものであつた。

そこで、川村医師は午後八時ころ、鎮痛剤ブスコバン一箇を筋肉注射して様子を見た後、午後一〇時ころ、同僚の高木医師とともに再び秀夫を診察した。その時の秀夫の症状は、「ブルムベルグ症状が軽くおこり、ランツ点あたりに圧痛があり、たたくと痛みがひびく。グル音は全般的に低下している。又、右直腹筋が強直(左に強い)していたが、熱はなく、ダグラス氏窩に軽い圧痛があり、肛門の緊張は良好である。」というものであり、下腹部痛は幾分軽減していた。

川村医師は、以上の経過から秀夫の症状を第一次的には急性腸炎、第二次的には急性虫垂炎と診断したが、入院処置はとらず、クロロマイセチン(抗生物質)七日分、ブスコバン一〇個を処方し、一旦帰宅して、翌朝外来の診察を受けるよう指示した。そこで秀夫は右の指示に従い帰宅した。

(二) 翌三月一八日の朝、秀夫は川村医師の指示に従い、再び虎の門病院に赴き、被告加藤の診察を受けた。当時秀夫は、痛みが治まるどころか更にひどくなり、自力歩行できない程の有様であつたのに、被告加藤は、秀夫が痛みを訴えるのを無視し、右下腹部を掌で二、三回押えただけで、他には何の診察もせず、治療としても痛み止めの点滴を行つただけであつた。そして、病状についての説明もせず、「心配ないから薬を飲んで安静にしているように。」とだけ告げて秀夫を帰宅させた。

(三) 翌三月一九日、秀夫は被告加藤の指示に従い終日薬を飲んで安静にしていたが、痛みは一向に治まらなかつた。

(四) 翌三月二〇日になつても激痛は去らなかつたため、秀夫は虫垂炎ではないかとの疑いを深め、同日午前一一時ころ、虎の門病院の福地医師に電話をかけ病状を報告し、同医師から直ちに来院するよう指示を受けた。そこで、秀夫は正午ころ虎の門病院に赴き、同医師の診断を受けた。同医師は、血液検査、X線検査ののち、秀夫を診察したが、その診断によると、秀夫の症状は、「脈拍八四、体温は三八度四分であり、歩行及び起立不能の状態。マックバーネー圧痛、ランツ圧痛が認められ、右各圧痛点は痛みのため触診不可能。」という状態であり、また、血液検査の結果白血球数は一万六〇〇であつた。

(五) 福地医師は、右の結果から直ちに秀夫が急性虫垂炎であると診断し、同日午後三時三〇分同医師の執刀により開腹手術が行われた(終了は午後四時一〇分)。

しかし、手術は手遅れで、秀夫の虫垂は既に穿孔、破裂し、盲腸周囲から前腹壁にかけて膿瘍を形成し、虫垂突起はその根部を若干残すのみで、その他の部分は殆んど溶解し、潰瘍性峰窩織炎性虫垂炎と診断され、また、虫垂の穿孔により、虫垂内の膿汁が腹膜に達し、腹膜炎を併発していた。

そのため虫垂突起は切除できず、腹腔内の膿汁をできるだけ排出し、残存する膿汁を体外へ排出するためドレイン(排膿管)を挿入しただけで、手術は終了した。

(六) 三月二〇日当時の秀夫は、前記虫垂炎及びその併発症である腹膜炎のため、生命さえ危ぶまれる程の状態であつた。その後の治療により幸い一命はとりとめたものの、通常の虫垂炎手術であれば一週間程度の入院で退院できるところを、右症状のため、同年四月二〇日まで入院治療を受けなければならなくなり(以下これを「第一回入院」という)、その後も次の通り再三に亘り、腹膜炎及びその後遺症により入院治療を受けることを余儀なくされた。

(1) 同年五月二二日から同月三一日まで(第二回入院)

腹膜炎の再発により虎の門病院に入院。

(2) 昭和五一年一月二一日から同年二月二二日まで(第三回入院)

虫垂炎切除後膿瘍、汎腹膜炎、麻痺性イレウス(腸閉塞)により同病院に入院。

(3) 同年三月一八日から同月二六日まで(第四回入院)

イレウスにより同病院に入院。

(4) 昭和五二年一一月二四日から同年一二月七日まで(第五回入院)

イレウスにより同病院に入院。

なお、被告らは、少くとも第五回入院時以降の症状は秀夫の癌の再発によるものであり、それ以前の入院についても癌の再発という確定診断はできなかつたものの、癌の影響があつたと推測できると主張する。秀夫が虎の門病院において胃癌との診断を受け、昭和四九年一二月一三日に同病院に入院し、同月二〇日胃切除手術を受けた(昭和五〇年一月一八日退院)ことは事実であるが、第二回入院から第五回入院の原因となつた腹膜炎、イレウス等は、虫垂炎から腹膜炎を併発した場合通常見られる後遺症である。従つて、癌の再発が証明されたのであればまだしも、そうではない以上、前記入院はすべて虫垂炎手術の遅れが原因となつたものと考えるべきである。

3  被告らの責任<以下、省略>

理由

一請求原因1(当事者)はすべて当事者間に争いがない。

二請求原因2(秀夫の症状と診療経過)について

請求原因2の事実中、(一)の事実、(二)のうち秀夫が三月一八日朝被告加藤の診察を受けて帰宅したこと、(四)のうち秀夫の自宅における症状を除くその余の事実、(五)のうち手術が手遅れであつたことを除くその余の事実、(六)の事実のうち、秀夫が第一ないし第五回入院をしたこと、以上はいずれも当事者間に争いがない。そして、右の争いのない事実に、<証拠>を総合すると、以下の事実が認められる。

1  秀夫は昭和五〇年三月一四日ころから下痢をおこし、三月一七日には朝から十数回下痢をする程になつたため、同日午後二時頃、知り合いの幾島医師から止痢剤の投与を受けた。その結果下痢は止まつたが、今度は下腹部に激痛を覚えるようになり、安静にしていても一向に痛みが治まらないので同日午後七時ころ、救急患者として虎の門病院に赴いた(なお、秀夫は同病院の非常勤医師でもあつた幾島医師の紹介により前年暮に同病院に入院して胃癌のため胃の五分の四を切除する手術を受けており、以後、具合が悪い時には同病院に通院していた。そして同病院における秀夫の主治医は被告加藤であつた)。

2  同病院では、当日の当直医であつた川村医師が、秀夫から経過を聞いた後、診察を行つた。当時、秀夫の体温は三七度二分、脈拍は八〇であり、下腹部全体に圧痛、筋抵抗が認められた(乙第二号証(カルテ)の川村医師記載の略図によれば、これらの症状は右下腹部の方が強かつたものと認められる)が、ブルムベルグ症状はなく、腸蠕動音は正常であつた。そこで、川村医師はしばらく様子を見ることとし、秀夫に鎮痛剤ブスコバンを注射し、急患室のベッドで寝ているよう指示した。

川村医師は午後一〇時ころから再び秀夫の診察を行つた。すると、痛みは軽減していたが、下腹部全体にブルムベルグ症状が認められた外、ランツ点の下辺りに圧痛、たたくとひびく痛みがあり、右の直腹筋には左よりいくらか強い強直が認められた。また、グル音は全般的に低下し、ダグラス氏窩には左右に軽い圧痛があつたが熱はなく、肛門緊張は良好であつた。川村医師は右の経過から、第一次的には急性腸炎を、第二次的には急性虫垂炎を疑つたが、確定的な診断には至らず、腹痛が軽減しており手術適応が認められなかつたことから、翌朝もう一度診察を受けに来るよう指示して秀夫を帰宅させた。その際同医師は、秀夫に抗生物質クロロマイセチン(内服薬)七日分及び鎮痛剤ブスコバン(座薬)を与え、前者は一日四回服用し、後者は痛みが激しい場合に使用するよう指示した。

3  秀夫は川村医師の指示に従い、一旦帰宅し、自宅で寝ていたが、下痢は治まつたものの腹痛が一向に去らなかつたため、翌三月一八日再び虎の門病院に行き、午前九時ころから被告加藤の診察を受けた。被告加藤は、前日川村医師が記載したカルテを見た上で、秀夫の腹部を触診した。秀夫は被告加藤に腹を触られるとひどく痛がり(最初に触られた時には、痛みで体を動かし、被告加藤に「これでは触診できない。」と叱責される程であつた)、下腹部全体に激しい痛みがあることが認められたが、急性虫垂炎の特徴的な症状である回盲部に限局された圧痛は認められなかつた。そこで、被告加藤は右の触診の結果と川村医師の診断結果から秀夫の症状は急性腸炎であつて急性虫垂炎の可能性はないと考え、ソセゴン(痛み止め)の注射と点滴を行つた後、秀夫を帰宅させることとした。その際被告加藤は秀夫に対し「自宅に帰つて安静にし、前日貰つた薬を指示どおり飲んでいるように」と告げ、また、妻美智子が「ひどく痛がつているようですが大丈夫でしようか。」と尋ねたのに対して「心配ない。」と答え、それ以上の指示、説明はしなかつた(被告加藤が右のような指示しかしなかつたのは、下痢が治まつていることからみて急性腸炎は快方に向つていると考えられたし、万一容態に変化があつた場合には秀夫が自発的に来院するであろうと信じていたからであつた)。

なお、川村医師、被告加藤はともにその診察に際し白血球検査、大便の細菌学的検査を行つていない。

4  秀夫は、被告加藤の診察を受けた後、その指示どおり帰宅して安静にし、クロロマイセチンを服用していた。

翌三月一九日、秀夫の下腹部痛は徐々に軽減し、治まりつつあるような感じもあつたが、鈍痛がいつまでも去らなかつた。そのため秀夫は、胃の手術をした後であつたこともあつて不安になり、同日午後三時ころ、妻美智子を介して幾島医師にそれまでの経過を説明し、このままでは不安なので虎の門病院に入院することができるよう口添えを依頼した。同医師は、虎の門病院ではなく、知り合いの病院なら入院させることができると答えたが、秀夫は今更他の病院に転医する気にはなれず、入院の話は立ち消えになつた。次いで同日午後七時ころには虎の門病院に電話をし、胃切手術時の受持医で、かねて懇意にしていた福地医師に痛みがまだ治まらない旨報告したところ、同医師から翌日来院して診察を受けるよう指示された。

5  翌三月二〇日午前六時ころ、秀夫は突然激しい痛みに襲われ、体を動かせない程になつた。そこで原告らは秀夫を虎の門病院に連れて行こうとしたが、秀夫が余りに痛がるため、車に乗せることもできず、ようやく午後一時半ころ同病院に到着した(なお、その間に被告加藤の指示を受けた福地医師が電話をし、「とにかく病院に連れて来るように」と連絡している)。

虎の門病院に到着すると、直ちに福地医師が秀夫の診察をした。その結果、回盲部に圧痛が限局してランツ、マックバーネ点の圧痛が認められ、筋性防衛も認められた外、白血球数が一万六〇〇を数えるなど、明らかに急性虫垂炎の症状を呈しており、しかも穿孔が疑われたため、同日午後三時二〇分、福地医師の執刀により、開腹手術が行なわれた(なお、虎の門病院では、手術施行について当番制がしかれている。被告加藤は、当日の当番外であつたため、秀夫の手術自体には立会つていない。しかし、手術を行うという決定は主治医である同被告が行つたものである)。

手術時所見によれば、秀夫の虫垂炎は潰瘍性峰窩織炎性虫垂炎であり、虫垂は既に穿孔して盲腸周囲から前腹壁にかけて膿瘍を形成し、その根部のみが若干残つているという状態であつた。そのため同医師は虫垂の摘出をすることができず、腹腔内に留つた膿汁を除去して抗生物質ストレプトマイシンを散布した後、排膿管をダグラス氏窩及び筋膜前面にそれぞれ挿入して一応手術創を閉じて手術を終えた。

6  その後の経過は、どの段階まで虫垂穿孔の影響によるものであるか(この点の判断はしばらく措く)はともかくとして、請求原因2、(六)のとおりであつた(ただし、後記のとおり、第三回入院以降は、診療録に原告ら主張の診断名以外の診断名が記載されている)。

また、前掲乙第二号証(カルテ)の三月一八日欄には、被告加藤の所見が何ら記載されていないが、同被告本人の供述によれば、同カルテには、既に川村医師の前夜の記載があり、秀夫の症状について右の記載と特に異つたところが認められなかつたため、重複する記載をしなかつたことが認められる。

三請求原因3(被告の責任)について

1二で認定した事実に鑑定人浜野恭一の鑑定結果(以下「浜野鑑定」という)を併せ考えれば、秀夫の病状の経過については次のように推論することができる。

(一)  三月一七日までは、下痢及び右下腹部全体の痛みが主症状であつたことから、急性腸炎と思われる症状が続いていた。

(二)  三月二〇日に秀夫が開腹手術を受けた際、穿孔した虫垂が盲腸前腹壁間に限局性膿瘍を形成していた。このような限局性膿瘍が形成されていたのは虫垂を囲んで腸管、腸間膜、腹膜などの隣接臓器が線維性のゆ着を生じて防壁を形成したためであるが、急性虫垂炎の発症からこのようなゆ着が形成されるまでには通常二、三日を要するとされている。このことと、後述のとおり三月一七日夜、同月一八日朝の各診断の際に、急性虫垂炎の症状とも見得る症状が発現していたこととを勘案すれば、急性虫垂炎は少くとも三月一七日夜には発症していた可能性が十分にある。そして、三月一七日から三月一八日の間には、急性腸炎と急性虫垂炎とが併存する時期があつたものと推定できる。

(三)  虫垂が穿孔する場合には激痛を覚えるのが通常である。従つて、秀夫が激痛を感じたという三月二〇日午前六時ころに穿孔がおこつたものと考えられる。

(四)  右の経過を前提とすると、少くとも結果論としては、穿孔のおこる前、すなわち三月一九日以前に手術が行われるのが最も妥当であつたということができる。

この点について、被告らは、急性虫垂炎には種々のタイプがあり、穿孔が既に生じていたということから手術が手遅れであつたとは言えないと主張する。その主張の意味するところは必ずしも明らかではないが、仮にこれが穿孔性虫垂炎は、発病後早期に穿孔するものであり、虫垂炎との診断が速やかに行われた場合であつても既に穿孔をおこしていることがありうるという趣旨であれば(このこと自体は浜野鑑定からも認めることができる)、本件においては穿孔の時期が三月二〇日の午前六時頃であると推定できる以上、意味のない主張であると考える外はない。又、<証拠>によれば、虫垂が穿孔する以前においても虫垂内の細菌が虫垂壁を通過し、腹膜炎(透壁性腹膜炎)をおこすことがありうることが認められる。被告らの主張は右の趣旨であるとも解し得るが、仮にそうであるとしても本件においては虫垂穿孔による膿瘍形成が問題とされているのであるから、やはり、その主張は失当である。

そこで、被告加藤らが、三月一九日以前に秀夫の症状を急性虫垂炎であると診断せず、そのために手術をしなかつた点に過失があつたかどうか検討する。

2  川村医師の過失(請求原因3、(二))について

(一)  川村医師が三月一七日夜第一次的には急性腸炎、第二次的には急性虫垂炎と診断し、翌朝再び来院して診察を受けるように指示して秀夫を帰宅させたことは前示のとおりであるところ、原告らは、このとき大便の細菌学的検査をして急性腸炎の可能性を否定し、白血球検査をして急性虫垂炎と診断し、直ちに適切な措置をとるべきであつたと主張する。しかしながら浜野鑑定及び被告加藤本人尋問の結果によれば、急性腸炎が疑われる場合でも、この検査が必須とされるのは、下痢の原因として細菌感染とくに赤痢菌、サルモネラ菌、病原大腸菌、腸炎ビブリオ菌、ブドウ球菌などの感染が疑われる場合であるところ、本件においてはこれを疑うべき症状はなかつたことが認められる(この認定に反する証拠はない)のであるから、川村医師には右検査を行うべき義務はなかつたものというべきで、この点に関する同医師の処置に過失を認めることはできない。

(二)  次に白血球検査を行わなかつた点について考える。

<証拠(浜野鑑定ほか)>を総合すると、白血球検査はそれ自体としては、化膿性炎症の有無を判定するための検査であるが、急性虫垂炎の診断のための重要な補助的診断法とされており、右検査の結果白血球数の増加が認められれば(通常は白血球数一万個以上が一つの目安とされている)それは化膿性炎症の存在を証明することとなり、他の検査と相まつて急性虫垂炎罹患を判断するための有力な根拠となること、従つて、急性虫垂炎罹患が疑われる場合には右検査を行うべきであるとするのが医学上の定説になつていること、以上の事実が認められる。

そうすると、本件においても白血球検査は一応すべきであつたと言うことができる(この点について、被告らは、秀夫はいわゆる原爆症患者であつて、しかも昭和四九年一二月二〇日に胃切除手術を受けた後、一時期制癌剤の投与を受けていたことがあり、そのため白血球の絶対数が減少していたし、通常人に比べて炎症をおこした場合の増加割合も小さくなつていた(これらの事実は成立に争いのない乙第三号証、被告加藤の本人尋問の結果により認められる)から、白血球検査をしても参考にならなかつたと主張する。しかし、急性虫垂炎に罹患していれば白血球数はそれなりに増加したはずであり、そうすると、秀夫の前記のような症状を念頭において検査結果に吟味を加えたならば、急性虫垂炎に罹患していたか否かを判断すべき一つの参考資料になつたであろうことは否定し得ない)。

しかしながら、浜野鑑定及び被告加藤本人尋問の結果によれば、一般に圧痛の回盲部への限局が認められないままで虫垂炎の手術に踏み切ること自体困難である上、秀夫は前年暮に胃切除手術を受けたばかりで手術のような人体への侵襲をともなう治療行為はなるべく避けるべき状態にあつたことが認められる。右の事実と、前示のとおり、二度目の診察の際、秀夫の腹痛が軽減しつつあつたことを勘案すれば、仮に川村医師が白血球数検査を行い、その結果白血球数の増加を認めたとしても直ちに秀夫の症状を急性虫垂炎であると断定し、手術に踏み切れたかは疑問であると言わざるを得ない。そうすると、川村医師が白血球検査をしないまま秀夫の症状が手術適応にはないものと認め、経過観察のため翌朝の再来院を指示して同人を帰宅させたことはやむを得ない処置であつたと言う外なく、川村医師には医師としての注意義務違反も過失もないというべきである。

3  被告加藤の過失(請求原因3、(三)、(四))について

(一)  被告加藤が三月一八日朝秀夫の症状を急性腸炎と診断し、帰宅を指示した際にも病状や以後の診察の要否について、別段指示説明をしなかつたことは前示のとおりである。

(二) ところで、二で認定した事実によると、被告加藤が秀夫の診察を行つた時にも圧痛は回盲部に限局していなかつたのであり、川村医師の診察から更に半日近く経過した後の診断結果がこのようなものであつたことが急性虫垂炎を否定すべき有力な所見であつたことは事実である。しかしながら、被告加藤の診察当時、秀夫の下痢が治まつてからかなり時間が経過していたにもかかわらず、激しい下腹部痛が残つており、そのため秀夫にとつては触診を受けることとさえ苦痛であつたことも既に認定したとおりである。そして、浜野鑑定によれば、右のような症状からすると、急性虫垂炎の可能性を全く否定するのには疑問が残り、白血球検査は一応行うべきであつたこと、又、このような場合には、急性腹症(急性虫垂炎、絞扼性イレウスなど突然腹痛を主訴として発病する急性腹部疾患の総称であり、この中には緊急処置として開腹手術を要するもの、又、そのような疾患との鑑別診断が必要なものが含まれる)を疑う余地もあつたことが認められ<る。>

そうすると、被告加藤が秀夫の症状として急性腸炎を疑つたこと自体は正しかつたとしても、白血球検査を行わないまま急性虫垂炎の可能性を否定し去ることができたかは疑問であるし、更には急性腸炎、急性虫垂炎を含めた急性腹症全体を考慮しておくべきではなかつたかということも考えなければならない。

(三)  そこで、右のことを前提として被告加藤が行つた処置の適否について検討する。

まず、被告加藤が開腹手術等の処置を行わずに秀夫を帰宅させた点についてであるが、川村医師の診断当時の秀夫の症状が直ちに開腹手術に踏み切れるようなものではなかつたことは既に認定したとおりである。そして、被告加藤の診断時においても圧痛の回盲部への限局が認められなかつたことに照らすと右の時点における事情も川村医師の診断時とほぼ同様であつたといえる。そうすると、被告加藤が開腹手術等を行わずに秀夫を帰宅させたこと自体はやむを得ないものであり、この点に過失を認めることはできない。

次に経過観察義務を怠つたという点について考えるに、急性腹症と言われる疾患群(この中には急性虫垂炎も含まれる)は、その名称どおり急性のものであつて、しかもその中には急性虫垂炎を始めとして緊急開腹手術を行うべきものも含まれるのであるから、このような疾患の疑いがある場合には、患者の容態の変化に敏速に対応できるようにするため患者を何らかの形で医師の管理下におき、経過観察を行う義務があると言うべきである(浜野鑑定の言う「フォローアップの体制」というのもこの趣旨であると解される)。そして、右のような経過観察を行うために患者を入院させる必要まではないにしても、患者に対し下痢が治まつているのになお腹痛が継続するようであればそれは危険な徴候であることを説明し、また、右の説明をしないまでも、少くとも翌日になつても腹痛が治まらないようであれば再び来院して診察を受けるよう指示すること程度は最低限必要であると言うことができ、医師にこの程度の注意義務を課することが酷に失するとは考えられない。

そうすると、本件において被告加藤が急性腹症を疑うべきであるのにこれを疑わず、秀夫を帰宅させるに際し、「心配ない。薬を飲んで安静にしていればよい」と告げたに止り、右のような指示説明を行わなかつた点には医師としての注意義務違反があり、過失があつたものと認めざるを得ない。

(四) 被告加藤が右のような指示・説明をしていれば、秀夫の腹痛は三月一九日になつても軽減していたとはいえ継続していたのであるから秀夫は再び虎の門病院に来院して診察を受けることができたと推認することができる。そして、浜野鑑定によれば遅くとも同日中には圧痛が回盲部に限局していたはずであること、従つて、同日中に秀夫の診察が行なわれていれば、急性虫垂炎との診断が可能であり、開腹手術に踏み切れたと考えられることが認められ、この認定に反する証拠はない。従つて、本件において三月一九日中に開腹手術が行なわれず、虫垂穿孔という事態が生じた原因は、被告加藤が前記のような指示・説明を行わなかつたことにあると言わざるを得ない。

(五)  そうすると、被告加藤は民法七〇九条により、又、被告連合会は民法七一五条により、それぞれ虫垂穿孔による膿瘍形成という事態が生じたことにより秀夫が蒙つた損害を賠償すべき義務がある(なお念のため、原告らのその余の過失主張について付言しておくと、被告加藤が大便の細菌学的検査を行わなかつたとの点は、本件の場合右検査が必要とは言えなかつたことは前記のとおりであるからその前提を欠き、温罨法の指示の点については被告加藤がこのような指示をしたことを認めるに足りる証拠はない)。

四請求原因4(損害)について

1  逸失利益

原告らは、翻訳センターが秀夫の個人企業であるところ秀夫が虫垂穿孔の後遺症に悩まされることになつた結果同センターは昭和五〇年度から昭和五二年度まで毎年少くとも五〇〇万円宛の収入減を生ずることとなつたのでこれを逸失利益として請求すると主張する。

そこで検討するに、<証拠>によれば、翻訳センターの主たる業務は外国出願特許の翻訳であり、これを秀夫が中心になつて行つていたことが認められ、この認定に反する証拠はない。

しかしながら、同証拠によると、翻訳センターの代表取締役は当時から原告浜中美智子であつて同原告がその経営に当つており、秀夫は少くとも形式上その従業員とされていたこと、秀夫に対しては同センターから固定給が支払われることとなつており、その額は秀夫が入退院を繰り返していた間も変らなかつたこと、更に、同センターの行う翻訳業務の相当部分は外注によつて行われていた他、秀夫が入退院を繰り返すようになつた後は秀夫の労働能力低下をカバーするため特許図面業務も行うようになつたこと、以上の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

そうすると、秀夫の業務が翻訳センターの売上げの中核を占めていたことは事実であるとしても、秀夫の活動と翻訳センターの経営、そして、この両者の計理は一応独立していたものと言うことができ、翻訳センターの損失を直ちに秀夫の損失であると認めることはできない。従つて、この点に関する原告らの主張は失当である。

2  入院治療費について

秀夫が第一回ないし第五回入院をしたことは当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によるとその間に秀夫が支払つた入院治療費は、第一、二回入院のため六〇万八九六〇円、第三、四回入院のため五三万四八八〇円、第五回入院のため四七万七八一〇円(合計一六二万一六五〇円)であることが認められる。ところが、被告らは、右の入院は、そのすべてが虫垂穿孔の後遺症によるものとは言えず、癌再発の影響も考慮すべきであると主張するので、以下この点について検討する。

(一)二で認定した事実に<証拠>を総合すると、第二回ないし第五回入院における臨床診断の病名は請求原因3、(六)のとおりであり(もつとも、診療録に他の病名も記載されていたことは後記のとおりである)、そこで挙げられた限局性腹膜炎、腸閉塞等はいずれも本件のように虫垂穿孔により膿瘍が形成された場合通常生じ得る後遺症であることが認められ、この認定に反する証拠はない(被告加藤自身、少くとも第三回入院までは虫垂穿孔の影響が主体をなしていると考えていたことを認めている)。

(二)  一方、<証拠>を総合すると、以下の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

(1) 秀夫の胃癌は、昭和四九年一二月に手術を受けた当時すでに相当進行しており、リンパ腺転移が認められるなど、手術を行つても再発、転移は避けられない状態であつた。

(2) 秀夫は、第二回入院の後、昭和五〇年六月一八日、急患で虎の門病院に来院し、心窩部痛を訴えたが、被告加藤は、この痛みはむしろ癌の再発によるものではないかと考え、早くもこの頃から再発を疑い出していた。そして、その後の第三回、第四回入院においては、診療録の臨床診断欄に「胃癌手術後」(第三回)、「胃癌手術後、癌」(第四回)と記載し、癌再発の疑いを次第に強めていた。ただし、再発を証明することはできていない。

(3) 被告加藤は、昭和五二年一〇月三日の診断で臨床的所見から癌再発を確信し、再び制癌剤の投与を開始した。そして、この後に続く第五回入院では診療録の臨床診断欄に「胃癌切除再発の疑、後腹膜転移」と記載し癌再発を前提とした治療、検査を行つた。

(4) 秀夫は、同年一二月二一日国立ガンセンターに入院し、癌の再発とその転移が確認されている。昭和五三年七月二五日に死亡したのも癌と尿毒症によるものであつた。

(三) 以上の事実によると、第一回入院から第五回入院にかけての秀夫の症状は一面において虫垂穿孔による影響によるものであることは否定できないものの、反面、一旦は手術により抑えられていた癌が序々に再発に向かいその影響を強めていつたことも否定できないのであり、このことは、前記診断当時癌の再発を証明できなかつたことと矛盾するものではない。また、第一回入院については、前年の胃切除手術による影響や急性虫垂炎自体の影響を考慮すべきである。そして、このような場合秀夫の個々の症状等について何がその原因になつているのかを個別的に論ずることは困難であるし、又、妥当であるとも思われない。そこで右に挙げた虫垂穿孔、癌再発などの影響を全体的に評価することとし、前に認定した病状の経過等に照らして秀夫の支払つた入院治療費の約五割である八〇万円を虫垂穿孔の影響による損害と認めることとする。

3  慰藉料

秀夫は、前示のとおり二年余に亘つて虫垂穿孔の後遺症に悩まされたものであり、その間の肉体的精神的苦痛が多大なものであつたであろうことは容易に推認することができる。しかしながら、秀夫の病状はかなり特殊な経過をたどつており、その診断が困難であつたことは、否定できない。また、証人福地晋治の証言によれば、三月二〇日に秀夫を入院させ、手術をするについては、被告加藤が積極的に病室の手配をし、福地医師に指示して秀夫に対し早急に来院するよう連絡していることが認められるのであるから、これらの事情は、慰藉料の算定に当つて考慮すべきである。原告らは、被告加藤の不誠実さを示す事情として手術に立会わなかつたことをあげているが、これは前記のとおり虎の門病院の制度によるもので、被告加藤に悪意があつたものとは認められない。

一方、<証拠>によれば、秀夫は自分が癌に罹患していることを知らず、胃切除手術を受けたのは胃潰瘍によるものであると信じていたこと、癌の転移により国立ガンセンターに入院したのは原爆症の検査を兼ねて虫垂穿孔の後遺症による腹部痛の治療のためであると信じていたこと、そのため三年余にわたる耐え難い疼痛は、すべて被告加藤の誤診で急性虫垂炎の手術が手遅れになつたことによるものと考え、被告加藤を恨んでいたものであることが認められ、これが誤りであることは、既に認定したところから、明らかである。また、秀夫は三月一九日、幾島医師に、虎の門病院に入院できるように頼み込んでいながら、自ら同病院に行き、診察を受けなかつたのであるが、同人がこのような途を選ばず、進んで医師の診察を求めていれば本件のような事態を防ぐことができたとも言えるのであつて、このことも慰藉料算定に当つて考慮してよい(なお、被告らは、右のことは秀夫の過失と言うべきであるとして過失相殺を主張する。しかしながら、秀夫のように医学的な知識のない者が、医師から「心配ない」という趣旨のことを告げられた場合、これを鵜呑みにしてしまうことも考えられないことではない。このような場合、以後、容態に急変があつたという事情でもあればともかく、そのような事情もないのに、患者が不安を感じながら医師の右の発言を信頼して診察を受けなかつたからといつて、直ちにこれを過失と断ずるのは酷に失すると言うべきである。よつて、前記の事情は慰藉料算定の一要素とするに止め、過失相殺はしない)。

そして、右の各事情に既に認定した虫垂穿孔が影響する割合、等諸般の事情を考慮すると、秀夫の精神的肉体的苦痛に対する慰藉料は二〇〇万円が相当であると認める。

4  弁護士費用 三五万円。

5  相続<以下、省略>

(大城光代 春日通良 鶴岡稔彦)

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